なにやら妙な研究してる・そういう噂~環境科学&農生態学系物質循環研究者の日常~
 ショウペンハウェルではありません。はい。
 小説を殆ど読まなくなって随分と経つ。新書やノンフィクション中心で読書量もガクンと減ってずいぶん経つ…皆既日食に嵌って自動撮像装置を作るのが楽しみの中心になってきたこともある。危険なのは、自分の視野と興味の狭窄であるが、そのためには年150冊以上は読まないとダメだな、と100冊台読んでいたころに思ったが、今はその半分もないだろう。これじゃあつまらん奴になっても致し方ないか、と思う事多少。

 まだ小説を読み始め、物書きに興味を持ったのは、中学生のころだろうか?五木寛之の、多分初期の短編集だった。面白くて嵌る、とかではなく、小説って面白いのだな、と思った。まあ、本人ご存命であるし今も筆は達者な方だとは思うのだが、多分初期、と思ったのは、本を読まなかった者にも粗いところがあると感じたから。エッセイも読んで、車を買う前に1年間自動車雑誌を本屋にある限りのものを全部買って読んで、知識を積んでから、畑正憲氏とは異なり免許を取って購入し(確かに免許証を持たなくても車は買える、と自分が車を買ったときに実地で知った)、とんでもなく走り回った…と言う話があったが、それが結実して「メルセデスの伝説」が書けたのだな、と思った。ちなみに氏を真似して1年間カメラ雑誌を立ち読みし続けて、さらに天文雑誌の実写テストでレンズを知ったうえで、私は日本光学の一眼レフを購入した。畑正憲本も東京時代のエッセイから、小説も結構読んだけど、氏が最高峰という「青い闇の記憶」だったかはどうも入りきれなかった。小説とは別物として映画になった「REX」(文庫本では「恐竜物語 奇跡のラフティ」、野生時代連載時は「ラフティ」)は鳥の卵の殻を開けるとどうやってもヒナにならない時代に童貞/処女生殖をやったのだからなかなかのもんだと思った(中二病でも科学は出来る?)。小説は面白いと思ったが、映画はテレビでチラ見した程度でとても見たいとは思わなかった。あまり読まなかったけど、それでも読むんじゃなかった、と思うような本は時代もあってか、引っかからずに済んだ。が、本をさして読む人でない私ですら、「ベストセラーに名作無し」という感覚を決定づけた小説は2つある。それが
村上春樹の「ノルウェイの森」とJ.K.ローリングのハリーポッターシリーズの頭2作(以降読んでいない)だ。前者は上巻を読んで下巻のオチが想像でき、かつ読み進むにしたがって一番詰らないところに落ちたことに自己嫌悪した。ハリポタは激安シナリオのくだらないビデオゲームのRPGを強制されたような苦痛を感じ、マジに売れてるのか?と買う人が居ることの不思議を解析できるか?と間違い探しのような気分で2冊目に行って、自分の馬鹿さ加減を痛感した。ここに私は小説を読むようにはできていないし、世の人と感性が違うんだ、とよくわかった。が、村上春樹本はエッセイや短編集には楽しみを覚えた。嗜好が人と違うのは良く知っている。「カジュアル・ベイカンシー」がどれくらい売れたか私は知らないが、ハリポタの続編を書いたあたりで売れなかったんだろうなぁ、と思う、というか、そう決定づけられてしまったのかもしれないが…

 結局何が言いたいわけでもないエントリだが、小説に好悪を感じるのは、私は作品主義をとるようになり、どの本は面白かった、という事はあるが、誰それが書いた本は必ず面白い、という春樹ストはじめ作家主義は取りえない事だ。そういう自分がマイノリティであり、感じるままに本を批評はするが、著者は批評しない。この辺、今の世間と如何に乖離しているかも判っている。ノルウェイの森が面白くない=村上春樹作品は全部嫌いなんだな?と決定づけてしまわれること、一事が万事でノートレラントに固定されることだ。その辺のキャラの固定の悲しみは、日常系マンガを読むとよくわかる。「らきすた」、「日常」はキャラ固定でそこからはみ出ることは決してない。人の持つ気分の波や意外な一面、というのが無い世界である。その淵源は簡単だ。文部省~文科省教育の方針そのものだから。アウトローでもやっていける職業に着けたのは恐るべき偶然なのか?とも思ったりする。

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【2018/11/16 23:38】 | 徒然
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