なにやら妙な研究してる・そういう噂~環境科学&農生態学系物質循環研究者の日常~
 元生態学の鬼門「物質循環」研究をやってきた身としては、植物生態学にも一定の理解はあるものの、「自分のやり方は絶対大丈夫、正しい」という考えがあまりに強く、逆説的に柔軟性が低く、その硬直した=ブレない発想にどうかなぁ?と思うことがあまりに多かった。ただ、得られる情報はなかなかに面白い。「潜在植生」というモノを起案した教官の下、それを日本の風土をきちんと考慮して展開するのは良いが、潜在植生こそが至高にして究極の植生である、と刷り込むのが、じゃあ人間の居場所とは?と考えずにいられない。もちろん、江戸時代のコモンズの悲劇は今でこそ知られないではないかもしれないが、人の手が入ってこその自然、というモノがあることをどう解釈し、入れ込んでいったらいいのか、という事に関しては考えがない。数100年かかる過程を一発植樹で、というインスタントに物事を単純化できるか?というのには、スギ・ヒノキ・カラマツ等よりはましとはいえどうも納得しかねる。
 自然再生事業という暴論は出てきていないのでまだ良いかもしれない、が、1次遷移(まっさらな火山灰や溶岩のゴロゴロの何も見られないところに地衣類や蘚類・苔類、草本が入り木本が入りという状態)にせよ2次遷移(もともと植物があったところが植生を失い、のちに埋没種子や飛来する種子により植生場再生するもの)にせよ、確かに最後落ち着く極相の植生は発生するが、その間にかかわるプロセスが菌根菌(AM菌、外生菌根菌など)によって制御されるという仮説は彼の活躍期間に発生していた話であり、そう考えるとみてくれは確かに枯れずに残る宮脇手法の樹木となるかもだが、土壌の菌類相はいかがかと思える。
 そして鎮守の森は潜在植生、と書き立てる考え方(大学時代に照葉樹林は潜在植生で残り0.03%という数字化されて喧伝された)も、里山博士・守山弘氏にすると、実は生活に便利な樹種が集まったのではないかという仮説とは対立する。この辺りの判断はどうするか、という事も著者は考えていない。
 日本に自然という言葉はなかった、というのも物質循環研究で動的平衡が最初に出てくる概念と同じで、植物・植生生態学では最初に習うことだ。

 偉業を成し続ける著者に悪さはそれほどないと思ってはいるけど、景観生態学的観点から、どうも広がりがないとしか思えない。潜在植生を人為的に出現させる、という考えは面白いが、それ以上のものではないように思う。

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【2018/07/10 19:37】 | 本・読書
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