何かに傾注していた、という事は無いけれど色々な事が分散して行われた一日だった・・・という事になるのだろうか。
事務仕事と、Excel VBAのコードを見ているうちに終わってしまった感がある。本の原稿も書き始めたが、まだまだ。
Office365を使っていると、VBAで配列変数を使うのが恐る恐るというか、大規模多次元データは扱えない仕様に退化していることが、パワポとエクセルが同時に使いにくい(フリーズすることがままある)事を発見して以来、なんか、Microsoftの代わりにバグ出しをしてやってるようでやってられない。早く進めたい研究なのだが…
ということで、「メモリが不足しています」エラーの無い間に取り出せるものは取りだそう、という事で、出力してもいいかな?という配列変数の中身を表示するルーチンを作ったが、これがお見事に数字が出てこない。一発で上手く行くことは無く、根気と意地と執念のデバッグになるのだが、今それに突入するか?と言うのに悩む。本の原稿を書きたいし…
事務をやっている頭の中でもやもやした人文学的な考えが浮かんでくる。
科学と言うのは結構人間臭いものなのだがそういう考え方がどれくらい知られているのか、と言うのは甚だ疑問である。「科学者が人間であること」 (岩波新書・中村 桂子著)で、〆の方にそれが当たり前なんだよ、と諭すように落とし込んで行っている事が象徴しているかもしれない。いわゆるビッグデータとかデータサイエンティストとか、そんな言葉も何もなく、コンピュータの動作クロックが数10MHzでHDDが500MBもなくフロッピーディスクがやり取りの媒体の中心だった頃に、100MB以上あると思われるデータを扱ってきた経験は、それを100倍か1000倍すると今につながる感がある。そして数字の山を他の研究に使う基礎的なデータサプライヤー兼データベースの管理人となった今、振り返ると私の知識を増やす事であったり、山のような経験・体験の中からの泥臭い(てか、堆肥データを扱う事は排泄物を知る事でメルカプタン臭と言う方がいいかも)思考の使い方と閃き方、時に社会経済のサージカルな考えなどなど、個人的には「深化」よりも知と経験の拡大で乗り切るようになってきたのは、無味乾燥な集約された情報の見えない裏面だろう。そして答えが面倒になるのであまり問われたくない事でもあるが。
ワイルドだった生態学会の中で戦い続けた、今は大抵大学か大学院の教授をされている先任と話していて、大学教官のリアルと研究所職員のリアルが、意外と違うのが面白い、となったことがある。生態学会においては就職は非常に面倒であったし、今も専門を生かせる職業はきわめて少ない。実際、私は生態学を捨てて農学に移っている訳で、しかし農学…土壌肥料学系も専門は捨てなくてはいけないと思う事がままある。それをどう超えるか、は最終的に個々人のバイタリティなのか、と、考えるが、さて?
事務仕事と、Excel VBAのコードを見ているうちに終わってしまった感がある。本の原稿も書き始めたが、まだまだ。
Office365を使っていると、VBAで配列変数を使うのが恐る恐るというか、大規模多次元データは扱えない仕様に退化していることが、パワポとエクセルが同時に使いにくい(フリーズすることがままある)事を発見して以来、なんか、Microsoftの代わりにバグ出しをしてやってるようでやってられない。早く進めたい研究なのだが…
ということで、「メモリが不足しています」エラーの無い間に取り出せるものは取りだそう、という事で、出力してもいいかな?という配列変数の中身を表示するルーチンを作ったが、これがお見事に数字が出てこない。一発で上手く行くことは無く、根気と意地と執念のデバッグになるのだが、今それに突入するか?と言うのに悩む。本の原稿を書きたいし…
事務をやっている頭の中でもやもやした人文学的な考えが浮かんでくる。
科学と言うのは結構人間臭いものなのだがそういう考え方がどれくらい知られているのか、と言うのは甚だ疑問である。「科学者が人間であること」 (岩波新書・中村 桂子著)で、〆の方にそれが当たり前なんだよ、と諭すように落とし込んで行っている事が象徴しているかもしれない。いわゆるビッグデータとかデータサイエンティストとか、そんな言葉も何もなく、コンピュータの動作クロックが数10MHzでHDDが500MBもなくフロッピーディスクがやり取りの媒体の中心だった頃に、100MB以上あると思われるデータを扱ってきた経験は、それを100倍か1000倍すると今につながる感がある。そして数字の山を他の研究に使う基礎的なデータサプライヤー兼データベースの管理人となった今、振り返ると私の知識を増やす事であったり、山のような経験・体験の中からの泥臭い(てか、堆肥データを扱う事は排泄物を知る事でメルカプタン臭と言う方がいいかも)思考の使い方と閃き方、時に社会経済のサージカルな考えなどなど、個人的には「深化」よりも知と経験の拡大で乗り切るようになってきたのは、無味乾燥な集約された情報の見えない裏面だろう。そして答えが面倒になるのであまり問われたくない事でもあるが。
ワイルドだった生態学会の中で戦い続けた、今は大抵大学か大学院の教授をされている先任と話していて、大学教官のリアルと研究所職員のリアルが、意外と違うのが面白い、となったことがある。生態学会においては就職は非常に面倒であったし、今も専門を生かせる職業はきわめて少ない。実際、私は生態学を捨てて農学に移っている訳で、しかし農学…土壌肥料学系も専門は捨てなくてはいけないと思う事がままある。それをどう超えるか、は最終的に個々人のバイタリティなのか、と、考えるが、さて?